【シンガポール映画】ジャック・ネオ監督『Money No Enough 3』を観てきた
随分久しぶりのブログ更新。1年ぶりくらいかと思ってたら実は2年半も経ってました。相変わらずシンガポールにおります。
AIの進化著しく、とくにChatGPTやDeepLe Write等が無料でも使える今日この頃、ビジネス英語ネタの記事を書くのもアホらしくなってきて、なかなか重い腰が上がらなかったという次第(ちなみに、昨年の正月には長年の間(約10年間)育て上げてきた内痔核の除去手術を受け、実際術後はケツが痛すぎて人生のやる気を失った時期もありましたがいまは完全に回復し、まるで犬のような快便生活を手に入れました。このことについては気が向けば本ブログに書きます)。
しかし日記程度のブログ記事をこつこつ書くくらいは趣味としてやっておこうと思ったのは、先週金曜、シンガポールの映画館The Projector独占にて上映された、ヴィム・ヴェンダース監督の『Perfect Days』を観て著しく心を動かされたからで、役所広司演じる主人公が公園の木漏れ日やよくわからんがいい感じに光が動いた瞬間を写真に収め、わざわざ数千円も払って現像したあと、いい感じの写真だけを缶缶の箱に入れて保管しておくというあの偏執的な行い(おまじない)と似たようなものとして、ブログくらいは続けてみようと思い至りました(アクセス数アップとか意識せず写真だけアップするとか)。
前置きはさておき、次の前置きに移ることにしますが、先月、日本人会の恒例古本セールにて入手した盛田茂著『シンガポールの光と影 この国の映画監督たち』を読みました。
シンガポール映画の歴史や監督・作品についての解説本かと思っていたら、そういう側面だけでなく、何気にほかのどんなシンガポール本よりも現代シンガポールの社会的情況を的確に描写した素晴らしい本でした。観光で来るだけでなく、シンガポールでこれから働くという方には、一読をおすすめいたします。
私はこれまで、シンガポールは経済的には先進国だが、文化・芸術面では後進国みたいに思い込んでいました。
シンガポールの商業地、住宅地、はたまた工業地、どこに行っても画一的で人工的で似たような景色ばかりが目に入り、私が好むロックやジャズやヒップホップのミュージシャンによるライブ・コンサートなどは皆無、映画はメジャーなものばかり上映され、カフェやコーヒーショップでも本を読んでいる人はほぼゼロ、服飾に関してもファストファッションかハイブランドか、みたいな二極化が目立ち、まったくおもろくなく、そこにパンデミックが来てきっつい規制が敷かれ、完全に不貞腐れていました。というかあきらめていました(ブログのやる気なくなった一因)。
シンガポールの成功は、政府・国民のプラグマティズムのおかげとはよく言われますが、そのせいで経済面で大きく発展した一方、人文・芸術分野におけるマイナー文化が育まれるような環境が十分に醸成されてこなかった一因ともなったことは否めません(「シンガポールでは金がすべて」と自虐的に言うシンガポール人は多いです)。
余談ですが、賢い政府はもちろんそのことにも自覚的で芸術文化促進を謳ってはいるものの、不動産、家賃、ひいてはハコ代が高騰してしまったせいで、例えばマイナーなミュージシャンがシンガポールに来てライブを行うなど、やる前から赤字確定でできないのだと思われます。
実際、2017年にシンガポール西部のジュロンイーストにオープンしたコンサートホールZeppは、わずか2年ほどで閉業(たぶんコロナ関係ない)。一方、先日のテイラー・スウィフトのライブは、「経済的波及効果が大きい」という理由で政府より助成金が出されたそうで、それにより彼女のライブは東南アジアではシンガポール独占となり、インドネシアやタイのファンなどもシンガポールに押しかけました。チケット争奪戦がえげつないことになっていました。
話を戻すと、そんな状況なので(一応The Projectorというミニシアター的な映画館はあるものの)、超ビッグアーティスト以外の音楽ライブはぜんぜんないし、増えるとも思えないし、「しょうもな」と絶望していたところ、そうした状況を打破していこうとする芸術的試みとしての映画製作は、香港映画のように目立つものではないものの、シンガポールにも確実に存在していた&存在しているということが上の本を読んで知りました。
そんな野心的な監督のひとりとして紹介されていたのが俳優・コメディアンでもあるジャック・ネオで、その代表作は「Money No Enough」(1998)という映画。
タイトルのシングリッシュ(イングリッシュではNot enough money)からも予想されるように、いわゆるコスモポリタン(英語を話す西洋的価値観の都会・中心の人)とハートランダー(アジア的価値観を維持する周縁の人)と呼ばれる社会区分を皮肉るように、ハートランダーの視点から金儲けにまつわるドタバタをコメディタッチで描いた人情劇。
ちなみに、この1998年の映画を見れば、シンガポールに長年住む日本人のおっさん(爺)のギャグの元ネタがここにあったことがわかります。しかしただのコメディ映画ではなく、正しい喜劇としての結構するどい政府批判というか皮肉るようなセリフも散りばめられており、シンガポールの今と昔でもぜんぜん変わっていない風景も楽しめました。
そんなMoney No Enoughの最新作が今年の春節に合わせて公開され、今日見てきました。
評判は割りとよさそうで、2008年の2作目Money No Enough 2をNetflixでわざわざ予習してから映画館に行ったにもかかわらず、残念ながらまったくの(2よりさらに)期待ハズレでした。
全体プロットは過去作の流れを踏襲というかほとんど同じで、怪我しても奇跡の超回復を見せたり、絶縁レベルの裏切りが数秒後(数年後)いきなり解消されるご都合主義のエンディングはストーリーにはそもそも期待してないのでそんなものとして受け入れられるものの、肝心のギャグに社会を切るような鋭さがまったくなく、ほとんど笑えませんでした。
最近のシンガポールの甘やかされて育ったような若者像を皮肉るのは良いとしても、一番違和感を感じたのが、そんな若者の出演者も含め、ほぼ全員がほとんど英語を話さないことでした。
最初のほうで大学生くらいの今風の若者集団の飲み会の場面があるのですが、そこでみんな中国語を話していました。そんなん今のシンガポールではありえない光景だと思います。
そんな前半で、もはやこの映画は批判精神を失い、中華系の中高年向けのお気楽なエンターテインメントになってしまった(実は最初から?)と感じて気分が乗らなくなり途中欠伸が何度もでました。
コスモポリタン(広い意味では映画に出てくるMOMの役人や医者含む)に対するハートランダー、みたいな区分に基づく、泥臭いシンガポール人の笑い話はもはや、「東京人」と「大阪人」の違いがどうのこうのといまだに言い続ける大阪の人間の笑い話に似た寒さを覚えました。
前作から15年も経った新作なのだから、そんなノリはシンガポール人の若者にもすでに無効になりつつあることを自覚したうえで、中国語もシングリッシュもイングリッシュも交えて、インド系やマレー系、はたまたその他の外国人も出演させるなどしないと、現在の多民族・多国籍国家シンガポールを肯定的にせよ批判的にせよ興味深く描くことはできないと思いました。
街中でよく聞く中華系シンガポール人の言葉が始終響いていてもリアリティをまったく感じられないというか。普遍性のない、観終わってもなんら心に残らない映画でした。
実際、映画館で何度も笑っていたのはおばはんばかりで、若いカップルはほとんど笑ってませんでした。絶対サムいと思ってたはず。映像的にも技術的にも見どころはとくになく、シンガポール以外で売る気はそもそもほとんどないのかもしれません。
つまり私は勝手にこの映画をある意味シンガポールが誇る「国民的映画」なのかと思っていたら全然そんなことはなかったというオチでありました。
とはいえ、これにめげずシンガポール産の映画はこれからも観ていくつもりで、ちょうどいまは1974年生まれのシンガポール人、ケルヴィン・ソン監督による新作『King of Hawkers』が公開中なので次の週末にでも行く予定。